ニュースレター No.18 (2014年09月25日発行)
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谺雄二さん(ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長)逝く
重監房を次代に遺す悲願を達成

写真/八重樫信之 文/村上絢子

第10回ハンセン病市民学会開催中の5月11日、栗生楽泉園(草津)で闘病中の谺(こだま)雄二・ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長が逝去した。

谺さんは、1932年、東京で生まれた。同病の母と兄と一緒に7歳で多磨全生園(東京都東村山市)に強制隔離。幸い特効薬プロミンで快復したが、後遺症で「鬼」のような顔になってしまった。19歳で楽泉園へ転園。自分の家族に降りかかった災難の元凶は「らい予防法」だから、「鬼」となって国のやり方に反抗すると決め、人権闘争と詩作に没頭した。

転園して間もなく、谺さんは山中に造られた「特別病室」を見に行った。1938年、内務・司法当局が不穏患者を収監するために、「世界に誇る文化施設」として建てたのだが、実際は重監房そのものだった。

高さ4・5mの壁に囲まれた監房には、明かり取り窓と食事の差し入れ口しかない。冬にはマイナス十数度にもなるのに暖房もなく、支給されたのは掛敷布団各一枚。1日2回の食事は、麦飯にタクワンか梅干し、身のないみそ汁か水一杯だけ。1938年から1947年までに93人が収監され、23人が凍死、衰弱死している。

1947年、国会で問題視され、国会派遣調査団が調査した後、1953年、入所者が知らない間に園が取り壊した。誰も責任を問われなかったし、重監房に関する公式記録は見つかっていない。これほどまでの人権侵害を国は「無かったこと」にしたと、谺さんは憤った。

現在、療養所の入所者数1840人、平均年齢83.4歳。入所者減に伴い「自然消滅」を待つ厚労省に対して、人権侵害の歴史が「無かったこと」にされるのを危惧した谺さんは、重監房復元を要求。ハンセン病の負の歴史を次代に伝えるために重監房資料館を建てて「人権のふるさと」にする、その仕事を終えるまでは死ねない、と言い続けた。4月30日の重監房資料館の開館式にストレッチャーで出席した後、重態に陥った。

市民学会の開会式に吹き荒れて参加者を震え上がらせた白根颪(しらねおろし)は、谺さんの魂の叫びであり、「人間」を奪ったものに対する怒りそのものに思えてならない。その夜、白根山に雪が降った。

11日未明、谺さん逝去。くしくも国賠訴訟の勝訴判決を勝ち取った日だった。谺さんが長い旅を終えて旅立ったその日は、前日とは打って変わって、穏やかな春の陽射しに包まれていた。全人生を闘い抜いた谺さんの顔には笑みが浮かんでいた。享年82。

『週刊金曜日』7月11日号(発行:株式会社金曜日)から転載



写真左は2012年11月の「いま、ハンセン病療養所の命と向き合う!」
東京集会で挨拶する谺雄二さん。


写真右は再現された重監房の壁。高さ4.5メートル

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