ニュースレター No.7 ハンセン病市民学会特別号(2009年6月15日発行) (1) (2) (3) (4)
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家族のもとへ

ヴァレリー・モンソン(オハナの会事務局長)

最近の2、3年間、幸運なことに私は、日本のいくつかの療養所を訪ねる機会を持てました。それらの療養所には、ハンセン病を患った人たちが、誤解されているこの病気のために、家族や、友だちや、他のすべての人たちから引き離され、長い間、隔離され続けてきました。長い時間を経て、これらの療養所は、庭や、ペットや、友だちや、新しい家族と一緒に暮らせる「ふるさと」になりました。

人々が高齢になり、入所者が減るにつれ、彼らがまた移転させられるのではないかという不安を感じていることを知っています。この状況を私たちはどうやって止めさせ、不安を感じている誰にも、誇りある快適な将来を保証することができるでしょうか?
私たちは、友人や家族の手助けでもって、そうすることができるのです。

1996年、カラウパパが閉鎖され、みんなは移転しなければならないという「うわさ」が広まりました。この「うわさ」は、入所者に感情的な苦痛をもたらしただけでなく、肉体的な問題も引き起こしました。この「うわさ」には、なんら真実味はありませんでした。しかし、その「うわさ」は「うわさ」に過ぎなかったものの、多くのダメージが残されました。

カラウパパのリーダーであるバーナード・プニカイア氏は、なにかしなければならないと決めました。カラウパパに住む誰でも、彼らが望む限り住み続けることを保障している州法と連邦法があるにもかかわらず、カラウパパの住人が高齢になり、入所者が減ってきたら、移転させられるという不安が徐々に表面に出てくるだろうということを、バーナード氏は知っていました。
それが「カラウパパ入所者とその家族会」である「オハナの会」の始まりです。バーナード氏は、カラウパパの入所者、その家族、そして1866年にカラウパパに送られた人々の子孫、古くからの友だちを含めた組織を作ろうと提案しました。バーナード氏は、彼らの支援と愛情で結ばれた強いネットワークがあれば、入所者が少なくなったときでも、カラウパパの人々の声は聞き続けられだろうとわかっていました。

カラウパパの家族会である「オハナの会」は、予想をはるかに越えて、70人もの人々が集まった会合の後、公式には2003年8月に設立されました。その会合に参加できなかった人々は、激励文を送ってくれました。それは、成長し続ける運動の始まりでした。
オハナの会が最初にやったことは、カラウパパのコミュニティーに人工透析機を返還することを求めることでした。州の保健省は、古い人工透析機を取り外し、もうこれ以上カラウパパで人工透析を受けられないと告げました。カラウパパのコミュニティーは、人工透析を受けなければならない人は誰でも、ホノルルの小さな病室に永久に引っ越さなければならないことを心配しました。オハナの会は、これは受け入れがたいと感じました。いくつかの主要な機関や組織が努力してくれて、9ヶ月以内に、2機の人工透析機がカラウパパに戻されました。

オハナの会は、カラウパパの住人が彼らの家で最後まで確実に住み続けられるように、また将来、その歴史が正確に語り継がれるように活動しました。オハナの会は、もう移転させられるという不安がなくなったカラウパパの住人の最大の助けになることと、彼らの大切な歴史が記憶され、将来の世代に引き継がれるだろうということを知っています。
けれどオハナの会は、ルーツを調査しているなかで、家族や子孫の生活を変えてしまうほどの利益があることを予測していませんでした。オハナの会を形づくり始めて以来、私たちは、カラウパパに縁のある何十組もの家族や子孫たちが、カラウパパで親戚に会ったり、彼らの先祖を知っている人々と話したりすることの手助けをしてきました。彼らの中のある家族と子孫は、幸運にもお墓を見つけられましたし、彼らの親戚について直接話を聞けましたし、カラウパパを訪問して、彼らの足跡をたどることができます。

▲報告するポーリーンさん(中央)とバレリーさん(右)

これから話す物語は、オハナの会の最もやり甲斐のある仕事を示しています。
アニー・マヘアラニ・アポは、曾祖父がカラウパパにいたことは知っていました。でも、それ以外のことは知りませんでした。オハナの会に感謝しているのは、曾祖父のジョン・T・ウネアがカラウパパの学校で教師をしていたことや、コミュニティーの最初の国勢調査を担当して、尊敬されていたことを知ったことです。ウネアは、アメリカによって、法律に因らずに退位させられたハワイ王国の独立運動を支えたときに使われたのに、打ち捨てられてしまった「帽子」を探しているという手紙を書いています。アニーと彼女の娘のテレサは、ジョン・ウネアが出した手紙をいくつも見つけ、カラウパパにいた他の家族についても知りました。

モニカ・ベーコン、ヒルトン・ハッチンソンとステアリング・ハッチンソンは、曾叔父のアンブロウス・ハッチンソンについて知っていました、けれど、去年の夏、カラウパパに行って、多くの人たちから、古い時代に彼がどれほど大きい影響を与えたかということを聞くまでは、彼がカラウパパの歴史にとってどれほど重要な人物だったかを知りませんでした。アンブロウス・ハッチンソンは、ダミアン神父と一緒に働いた、カラウパパで最初の所長でした。彼は1879年から1932年までという注目すべき長い間、特効薬がない時代にカラウパパで暮らしていました。ハッチンソンの子孫たちは、カラウパパを訪問している間、曾叔父の農業技術や、彼が植えたオレンジがカラウパパ半島で最良の木であることを学びました。彼らはさらに、曾叔父が植えたオレンジの木から、いくつかのオレンジを見本として採りました。

ミルトン・カネタは、カラウパパを訪ねることができません。けれど、オハナの会は彼の系図の隙間を埋めることができました。彼は、曾叔父のベネディクト・アピキについての情報を求めてきました。オハナの会は、アピキの墓碑の場所を突き止めて、彼について知っている住人にインタヴューしました。この情報と、墓碑の写真をミルトン氏に送ると、彼から「私といとこは、ここに座って泣いています」という返事が返ってきました。

カラウパパで彼らの家系図を探していた、どんな家族にとっても、デイヴィッドとクリス・マヘロナの話より心を揺さぶられる話はないでしょう。5年間、マヘロナ一族は、34人の祖先の中で、カラウパパに埋葬されているはずのデイヴィッドの祖父、ステファン・マヘロナ・ナペラのお墓を探していました。彼らはカラウパパに帰ってくると、いつもお墓を探していたにもかかわらず、目印となるお墓を見つけることはできませんでした。

オハナの会がまず最優先にしなければならないことは、ここに送られたすべての人の名前を、最終的に記念碑に並べることでした。オバマ大統領が最近、カラウパパ記念碑をつくる法案に署名したので、私たちはどこに記念碑を建てるか、どのようなものをつくるかということを決定しようとしています。

カラウパパに送られた8000人のうち、1300人だけしか名前のあるお墓に入っていないので、これからつくられる記念碑は、お墓のない人たちの墓碑として、また先祖の名前を探しに来た家族にとって、最終的な癒しの場所として提供されるものになるでしょう。記念碑は、カラウパパに送られた人々によってなされた犠牲を永久に記憶し、親切心、寛大さ、そしてアロハ精神をもって生き抜いた彼らの生き方に敬意を表するものであると信じています。

マヘロナたちはこう言います。「カラウパパ半島に埋葬されたステファンと遺された私たち家族にとって、記念碑は二番目の場所になるでしょう。不幸にも、花を手向ける、最善の場所はまだ見つかっていません」。
カラウパパ家族会であるオハナの会について、バーナード・プニカイア氏が描いたビジョンによって、家族会員と子孫の会員たちは、カラウパパ・コミュニティーの他の声となり、カラウパパの住人を支援する強い組織になりました。

私たちは、日本の、そして世界のどこのコミュニティーも、住人が年を取り、外からの力に対してさらに弱くなるので、彼らの家族、子孫、友人たちとともに住人を支え合うようになることを望んでいます。

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