ニュースレター No.13 (2012年6月20日発行) (1) (2) (3) (4) (5)
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インドのハンセン病施設見学記

会員 並里まさ子 (医療法人健富会 おうえんポリクリニック院長)

私たちのクリニックは、埼玉県の所沢市にあります。ハンセン病の既往歴を持つ人々が自由に一般の医療機関を受診できるようにと、7年前に開設しました。皮膚科、内科、形成外科の診療に携わっていますが、皮膚科の私はハンセン病をライフワークにしています。

初めてインドに行ったのは1992年で、カリギリ(タミルナード州)のハンセン病研究センターで勉強しました。インド人の医師3人と共に4人での宿舎住まいで、約20年前の懐かしい思い出です。2度目のインド訪問は、2000年にアグラで開催されたアジアハンセン病学会で発表するためでした。同市内にあるJALMA(旧救らいセンター)を訪れ、かつて日本が作った施設が現地の研究者に引き継がれ、立派に活動している様子に感動したものです。あとでわかったことですが、私の父(1995年に逝去)が1971年にこの施設を訪問して、宮崎松記所長に会っておりました。そのときの旅行記録を父が絵巻物に残していたのが後に見つかってから、もう一度インドの空気を吸いたい気持ちが一層募ってまいりました。日常の雑多な仕事は尽きませんが、エイッとばかり意を決して、3度目のインド訪問となりました。

目的の一つは、ハンセン病の現状です。インドは今も世界一患者数の多い国であることに変わりがありませんが、WHO(世界保健機関)はこの数年来患者数は大きく減少したと報告していますが、疫学的現状を現場の声として聞きたいと思いました。もう一つは、これほど多くの新患者が出る背景には何があるのか、ということです。

2010年9月18日夜、ムンバイ空港に到着し、翌朝ナグプールの飛行場から自動車でワルダの日本山妙法寺まで直行です。牛と車が同居するデコボコ道は、20年前を彷彿とさせます。インドのにおいがします。お寺に着くと、全くの別世界。夕方のお祈りの時間になると、三々五々集まってくる近所の人々の中で、子どもや若い人が多いのに感動しました。人々の暮しの中に祈りがしっくり溶け込んでいます。こんな習慣を私たちはいつ忘れてしまったのでしょう。

翌日は、アナンダバンのGandhi Memorial Leprosy Foundationの見学です。Dr. Vijai Pulが待っていてくださいました。インドにおけるハンセン病対策の最前線にいる人で、ちょうど疫学調査のまとめをする段階でした。昨年の新患者数は合計12万6,800人、相変わらず世界の新患者数の約半分を占めています。ただこの数字は、あくまで発見された患者数で、実際の患者数には多くの説明が必要なことは自明のことです。インドでは、少数民族へのアプローチがとても困難で、多民族、多宗教、多人種を擁する混沌の国の中でポケットエリア(村落単位の多発地域)に対する対策はかなり困難で、現状ではひたすら出てきた患者を治すのみ、これでは新患者の減少は望めません。

さらに障害となっているのが、ハンセン病に対する根強い差別です。差別されるかどうかは、菌の有無ではなく、外見上の障害の有無で決まります。例えば曲がった指を手術で治せば、差別の対象にはならないということです。これはどこの国でも、広くハンセン病の多発地帯で見られる現象です。それだけに、早期発見・早期治療で障害の出る前に治すことが大切ですが、いまなお病気を隠そうとする傾向が治療開始を遅らせ、結局障害が残ってしまう例が後を絶たないようです。

入院病棟では、独特の四肢潰瘍の治療を目的に入院している人がほとんどです。手足に知覚麻痺があると、日常生活の中で怪我をしますが、知覚麻痺ゆえに傷を受けたことに気づくのも遅れ、しばしば骨に達する深い潰瘍となってしまいます。ここワルダではほとんど寝かせておくだけで、局部のドレッシングは1日1回、薬はほとんどなし、仕事を休ませて安静にすれば自然に治るといいます。薬剤、医療機器、医療用品のすべてがないものだらけのガランとした空間が「病院」なのです。食事と寝る空間が与えられているだけでも「治療」になるのかも知れません。

翌日は、アーナンダワンに向けて、片道3、4時間、車を痛めつけながらガタガタ道を走りました。到着したところは、ババ・アムテの創立による巨大な組織で、約1万人が暮らす一大共同体です。ハンセン病および様々な障害を持つ人々が、互いに自給自足を目指して生活しています。視覚障害者、ろうあ者たちも共同生活をしながら、教育・職業訓練を受けています。アーナンダワンは「喜びの里」の意だそうで、社会から排斥された人々のやっとたどり着いた楽園となっているのでしょう。特に職業訓練の施設が充実していて、一般住民も訓練を受けています。一方診療部門を見ると、外来では毎日何人ものハンセン病患者が受診しており、やはりここはハンセン病多発地域のど真ん中であることを思い出します。

敷地内には、家具職人や大工もいますし、織物工場、手工芸品作業所、車やバイクの修理工場と何でもあり、時には自転車も作ってしまいます。たくさんの人にインタビューしたところ、発病後に家族から放逐された人が大多数ですが、ハンセン病ではなくても類似の障害のために社会から見放された人、先天的な障害のために家族が捨てた子どもなどが混じっています。ここに来てやっと自分の場所が得られたのでしょう。確かにここは「喜びの里」と呼ばれる楽園でしょう。しかし垣根を越えた外側には、彼らが順応できなかった社会があります。この垣根がなくなるまで、彼らに本当の自由はありません。

障害者に対して延々と続く社会の差別感情は、どこからくるのでしょうか? 理屈では説明できない「感情」がそうさせているのでしょうか? 驚いたことにインドでは、医療従事者たちもハンセン病患者を避けると聞きました。何と情けないことでしょう。私も医療従事者として、拳を挙げて啓発活動を始めたくなってしまいます。しかし一旅行者の私には、手を取り合って肌の温もりを伝え合うことくらいしかできません。

アーナンダワンからワルダに戻ったときには、日も暮れかかっていましたが、ガンディーゆかりの村々に連れて行っていただきました。ガンディー翁の慎ましい土壁の家、ここからインドの解放、虐げられたハンセン病患者の解放が始まったその場所が、きれいに整理された一角に大切に保存されていました。

翌朝、夜明けに出発してムンバイに戻り、町を自動車で走ってもらいました。ガンディーゆかりの偉業を引き継いで、地道なNGO活動に取り組んでいる人、ガンディー翁の右腕となって働いたヴィノバ氏の甥御さんが、本屋の2階で資料整理をしていた姿も印象的でした。薄暗い2階の一室で、外の喧噪を階下に聞きながら、ガンディーの偉大な足跡と、彼を支えて共に働いた人々のことを思い描いていました。

大急ぎの駆け足で、短い時間にたくさんの収穫をさせていただきました。私たちのクリニックに集まる、様々なバリアフリー化に篤い思いを持つ人々と共に、ワルダでの体験を分かち合いたいと思います。

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