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世界の友へ (2005年5月、IDEA国際会議でのスピーチから)

理事 柴田良平
世界のIDEAの仲間と。写真右端が筆者、前列右から二人目が妻のすい子さん/05年2月

今回のIDEA国際会議が、植民地支配から独立し、世界政治のうえで大きな発言権をもった世界史の象徴的な国、南アフリカ共和国で開かれることに大きな感動を覚えます。

私は1947年、ハンセン病の発病とともに離島の療養所、長島あ愛生園に閉じ込められ、その地で命が終わるのを待つ身にされてしまいました。そういう流刑地のような所で生きる私が、新治療薬プロミン剤の投与を受けられるようになったのは、入所して2年目の春でした。プロミン剤は素晴らしい効果を発揮し、着実に快方に向かい、海を渡ってくる新鮮な潮の香をかぎながら、対岸の本土の人々の暮らしに憧憬を感じるようになりました。

1951年、『カーヴィルの奇蹟』(ベティー・マーチン著)を読んで、ハンセン病が治って市民社会に復帰してゆく夢のような出来事が、アメリカ社会で現実に始まっていることを知りました。しかし当時の日本のハンセン病専門医グループは、「病気は不治で隔離強化が必要」と国会で証言し、世界で最後まで強制隔離政策を存続させる基となったのです。

私は「希望」は人間の生への根源的な力の一つであると考えています。私の人生は『カーヴィルの奇蹟』に希望の源泉を見つけ、失いかけていたアイデンティティーを取り戻しました。私は自己を啓発し、「個」の確立に努め、社会復帰して多くの人々と交わりたい、と三十数回の手術にも耐え、1996年の初夏、東京へ社会復帰しました。離島に流されて、実に21年目のことでした。私たち夫婦の暮らしは、貧しさと偏見や差別に怯えながらの生活でした。それでも隔離生活を脱し、自由を獲得した喜びは、何ものにも代え難い尊さに深い喜びを感じました。

1996年、日本の隔離政策は廃止されました。しかし、WHO、ローマ会議、国際らい学会の隔離廃止勧告を黙殺して押し進めてきた予防政策の過誤を不問のままに終止符が打たれたのです。そこで国を相手取り、ハンセン病の歴史上初めて裁判によって、隔離政策の違憲性を争うことにしました。これが「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」でした。

2001年5月、裁判所は原告の訴えを全面的に認め、「人生の発展の可能性の大半を損失させた国の責任の重大性」を指摘し、償いを国に命じました。原告支持の世論の力によって、国が控訴を断念したため、原告の全面勝利として決着しました。

「一人で見る夢は夢で終わるが、みんなで見る夢は必ず実現する」という、ある詩人の言葉は、自分の人生を顧みるとき、現実味を帯びてきます。みんなで見る夢は必ず現実のものになるでしょう。明けない夜はないように。


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