ニュースレター No.2 (2006年8月発行) (1)(2)(3)(4)(5)
ニュースレター No.2 Topへ >> ニュースレター No.2 記事(3)

「確証なき処刑」
−藤本松夫事件映画化への期待−

理事 柴田 良平

藤本事件が起きたのは、1951年6月1日で、その時期は第2次「無らい県運動」が進められていて、その年の11月、3人の国立療養所長は国会証言で、捗らない患者収容を、強権で収容できるように法律の改定を求めました。この証言のなかで、事件のあった熊本の所長は、「病気を県に報告されたことを逆恨みして一家謀殺を企て、村の衛生主任の家にダイナマイトを投げ込んだのです(議事録から)」と、審理中の藤本事件について、松夫氏を犯人と決めつける予断発言をしていました。その後、この衛生主任は、何ものかによって刃物で惨殺されましたが、この事件も藤本松夫氏の犯行にされ、死刑判決となったのです。
事件が起きた当時、ハンセン病に対する世間の目は冷たく、患者を出した家へは、親戚も遠ざかり、家族も患者を隠し、ときには家族でないようにふるまうのが当たり前の状態でした。そのため、松夫氏の無実を示す数々のアリバイがありながら、その証言をする者はいませんでした。彼が早く世の中から消えてもらい、身内であることを忘れてもらいたい、これが身内の偽らない心情であったと思われます。このことは、ハンセン病の宣告(病気の診断を、私たちはそう呼んだ。死刑宣告と同義語)を受けた者が、経験してきたことです。
そうした心情は松夫氏もわかっていたはずで、半ばあきらめと自虐的な状態に加え、逮捕されたときに受けた腕の貫通銃創の傷の発熱で、差し出された用紙に捺印し、押し返しました。まさかこの捺印が強要された自白調書を承認し、死刑となる決定的証拠とされるとは、予想しなかったと思います。
そしてこの藤本事件は、一度も公の裁判所で審理されることはなく、療養所郊外の医療刑務所の仮設の法廷で、半ば非公開で行われました。正規の法廷で裁判を受けられたのは、国賠訴訟が初めてで、らい予防法は患者が裁判を受ける権利をも阻害していたのです。
処刑は藤本松夫氏が最高裁に審理手続き中の1962年9月1日午後1時7分、福岡刑務所で執行されました。この報が瀬戸内の長島愛生園に伝えられたのは、その日の夕刻でした。園内放送を聞いて集会所に駆け付けた療友たちは、無力でなすすべを持たずに、涙を流していました。
あの日から40数年の時が流れ、国賠訴訟は勝利し、国の予防政策の非道が明白にされました。しかし、ハンセン病に対する偏見と差別に阻まれ、充分な審理が尽くされず、国の予防政策が深く絡むこの藤本事件は未解決のままです。是非この映画を完成させ、再審への大きな足掛かりとなることを期待しています。

前の記事を読む 次の記事を読む
記事(1)へ 記事(2)へ 記事(3)へ 記事(4)へ 記事(5)へ
ページTOPへ

特定非営利活動法人 IDEAジャパン
© IDEA Japan 2004-2015