ニュースレター No.2 (2006年8月発行) (1)(2)(3)(4)(5)
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全国巡回写真展 「絆」
−らい予防法の傷痕−日本・韓国・台湾

理事 八重樫信之

2000年5月11日に行われた、ハンセン病国家賠償請求訴訟(国賠裁判)の熊本判決で、「人生被害」という言葉が使われました。90年にわたる終生隔離政策の下、ハンセン病患者は、強制収容や強制労働のために、肉体的なダメージを受けただけではなく、人生そのものが奪われたことを意味しています。いったん患者であると宣告されると、家族と縁を切り、自分の存在を消して、療養所の中で一生を終えるしかありませんでした。
私はらい予防法が廃止された1996年から、ハンセン病の取材を始めました。そこで見聞きしたことは、人を人とも思わない人権侵害が、閉ざされた療養所の中で行われていたことでした。この事実を世の中の人たちに知らせなければ、と考えました。
1998年に国賠裁判が起こると、匿名裁判の中で、マスコミに名前や顔を出し、写真を撮らせる人が少しづつ出てきました。そこで、その人たちの写真を正面から撮らせてもらおうと考えました。
快復者のカミングアウトは、大きなリスクを伴います。厳しい偏見と差別を経験している人たちにとって、絶縁状態にある家族に新たな被害を及ぼすため、「死ぬ思いだった」といいます。しかし、あえて本人が表に出て被害を訴えたことが、社会を動かす大きな力になりました。
2004年、日本の植民地時代にらい予防法によって被害を受けたとして、韓国と台湾のハンセン病療養所の戦前の入所者が、日本政府に補償を求めて裁判を起こしました。私は2005年10月の判決を前に、この二つの療養所を取材しました。日本と同じらい予防法による強制隔離、強制労働に加えて、植民地時代の暴力は、入所者に深い傷痕を残していました。
韓国ソロクトの原告、姜禹錫(カン・ウソク)さんは、当時のことを次のように語っています。
「夜明けから暗くなるまで、レンガ作りや土木作業に駆り立てられました。レンガ工場で作業中、理由もなく職員に角材で膝を殴られ、その傷が悪化したら、麻酔が効かないままノコギリで足を切断されました。そのときの音は今でも耳について離れません」。
2005年10月の裁判は、同じ法律をめぐって争われながら、韓国敗訴、台湾勝訴という理解しがたい判決でした。しかし、原告の訴えと世論の高まりから、2006年、ハンセン病補償法が改正され、両国の原告たちは日本と平等に補償されることになりました。これによって、補償を申請した台湾の25人全員と韓国の64人がすでに補償金の支払いが認められています。
この裁判の支援に全国から多くの快復者が駆け付けました。国賠裁判の第一次原告になった、鹿児島・星塚敬愛園の上野正子さんと玉城シゲさんは、高齢にもかかわらず、裁判のたびに上京して、原告たちを励ましていました。また谺雄二さんも、「韓国と台湾の原告も、同じらい予防法の被害者だ。見捨てるわけにはいかない」と、支援活動の先頭に立って闘っていました。
同じらい予防法によって、家族、親戚、友人、故郷、社会との「絆」を切られてしまった快復者が、国賠裁判後、韓国や台湾の原告を支援し、一緒に闘うことで、日本だけでなく東アジアの人たちとも「絆」を取り戻しつつあります。
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▲ハンセン病市民学会と同時開催/富山市で、2006年5月15日
私はこれまで撮ってきた写真を写真集「絆 らい予防法の傷痕−日本・韓国・台湾」にまとめ、5月に出版しました。またIDEAジャパンのご協力で、同名の写真展を全国で巡回中です。今年になって3月に東京・芝にある人権教育啓発推進センターの人権ライブラリー、5月にはハンセン病市民学会が開かれた富山市の国際交流センターで展示しました。夏から秋にかけても青森、大分、東京など予定が入っています。少しでも多くの人たちに見てもらい、この問題の理解に役立てたいと考えます。

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