ニュースレター/IDEA国際会議 in インド特集号 (2008年4月発行) (1)(2)(3)(4)(5)
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「恩賜記念館」から「歴史館」へ

宇佐美 治 (長島愛生園歴史館運営委員)

▲国際ハンセン病学会・歴史部会で発表する宇佐美さん

私の居る愛生園は,国立療養所として1930年に開園しました。園内の小山の上に、1940年、貞明皇后(大正天皇のクイーン)から三千円のお金をいただき、光田健輔園長は、アジアのハンセン病患者の指導者を養成する建物を作るように命令しました。それが恩賜道場です。

その建物は、屋根の瓦葺き以外は全部入所者の手で建設されました。この恩賜道場で、アジアの患者100万人を中国の海南島に集め、指導者を養成するのが目的でした。しかしこのことについて、東京大学の太田正雄(木下杢太郎)は、「中国全土が制圧もされていないし、インドは日本の支配下に入っていない。このような現状では、荒唐無稽なプランだ」と、『湘南雑記』の中で批判していました。恩賜道場が完成したときは、B29が瀬戸内海を飛行しており、少年舎の子どもたちは「敵機襲来」と監視して報告している時代でした。

結局、恩賜道場は1949年、「恩賜記念館」と改名して、長島愛生園の開園に尽力した人たちの写真を30枚ほど掲示し、光田園長の所持品、皇太后からいただいた大壺、1934年春の万国癩患者自動の作品展の出品物、愛生焼などを展示しておりました。

1983年ごろ、女子高校の一行が来られたとき、「博物館のような展示場はありませんか?」と言われ、記念館に案内しましたが、前述の写真の額と2個のガラスケースに光田園長の遺品等が展示されているだけで、閑散とした会場に私は改めて唖然としました。

その頃、私は自治会の執行委員をしていましたが、自治会長から「宇佐美は恩賜記念館の仕事に向いているから、執行委員と兼務でやってくれないか」と言われました。恩賜記念館の資料整理の充実を図れと言われたことが、私の恩賜記念館との長い付き合いの始まりです。

それからは、福祉課の文教係に軽トラックで園内を運転してもらい、自警団の詰所からヘルメット、団服、鳶口、養豚部の空き家にあった雑品、病棟や治療室の備品など捨てているものを集めました。園内放送を通じて「手作りの木製の火鉢や、手の不自由な人が工夫して使えるように改良したカンナなど、古い時代の在庫がありましたら恩賜記念館に展示したいのでご協力ください」と呼びかけたこともあります。

古い事務棟の改築の直前に、園内を写した写真のアルバムや雑誌などがゴミ捨て場に大量に捨てられていると聞いて、ゴミ捨て場に急行し、捨てられていた物品をトラックに乗せて帰り、半分を『愛生』の編集部へ、半分を自治会に分けたので、資料保存の基礎ができました。自治会の資料は,1971年秋、礼拝堂(園の講堂)の火災で全焼してしまいました。ゴミ捨て場から拾ってきたアルバムなどは、貴重な記念品になりました。 その後、試験室の2階を取り壊す時、『長島紀要』や『年報』などが大量に放棄されていると聞き、私と島田等が自治会に運びました。事務部長を「貴重品をなぜ廃棄するのか」となじりましたら、「部長の責任で放棄したのに文句あるか」と言われ、自治会からも「邪魔だからどこかへ持って行け」と言われ、やむを得ず恩賜記念館の玄関に山積みし、来館者に自由に持って帰ってもらいました。いま考えると、バックナンバーを何点か残しておけば,皆さんの参考になったのにと悔やまれてなりません。特に入所者は特別の人でなければ閲覧することもできなかったのですから、「癩」に関する論文集1〜6や、『長島紀要』が飛散したことを悔やんでおります。

特筆すべきは、園内だけでなく古文書が手に入るとわかれば跳んで行き、中国の明の時代の『養生論』など、外国の文献も手当り次第に集めたことです。愛生園の3代目の友田園長が、退官直前に入所者に対して「開園直後の登り窯の愛生焼を寄贈して下さい」と呼びかけてくださって集まったコレクションや、倉敷天文台の小さな望遠鏡など、たくさんの協力を頂いて歴史館の開館直前には2000点も集まり,書籍類も2000冊余になりました。

1996年にらい予防法が廃止されましたが、1993年まで本館2階の図書室には入所者は入れませんでした。そのような差別と偏見が残っているのが実情でした。また、1971年に礼拝堂が焼失したのは本当に衝撃でした。患者の血のにじむような記録が灰燼に帰し、本館をはじめ職員の古い資料が建物改築とともに、いとも簡単に捨てられた事実を見て、日本のハンセン病患者の生涯隔離された療養所の生活の一端を、なんとしても、一人でも多くの人に見て、感じて,考えて頂きたいという思いから、私自身、目が不自由なのも顧みず、資料を集めることになったわけです。

しかし、亡くなった人の遺品を提供してもらおうとお願いに行っては、乞食扱いされ、無関心な人からはバカな奴と思われたりしましたが、ハンセン病の歴史を、記録だけでなくモノで綴りたいという思いは、老盲になっても変わりません。そしてそれは、このような歴史が二度と繰り返されないよう望む一心からです。

2000年頃、監理課の全面新築が始まりました。自治会は歴史的な建造物の事務本館だけは残すように要請し、取り壊しを中止させました。この2階建ての旧本館を愛生園の記念館として、恩賜記念館に代わるハンセン病歴史記念館にしようと考え、厚労省に要請しました。しかし厚労省は、東京に高松宮記念ハンセン病資料館があるので、国立の記念館は東京だけでいい、愛生園に歴史的記念館は必要ないと言うので、やむを得ず、長島愛生園歴史館として内装の改築に着工しました。

2003年8月、歴史館が完成したので、恩賜記念館から展示物を移し、加えて一般参加者の方々に歴史的な品々や、ビデオテープの映像コーナーを設けるなど、皆さんにハンセン病の長く苦しい歴史を見て頂く歴史館にいたしました。

それから4年間で約4万人の参観者を受け入れ、皆さんの参考にしていただいています。


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