ニュースレター No.10 (2011年02月20日発行) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
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つながって生きる −ハンセン病快復者と私の15年−
八重樫 信之 (写真家、IDEAジャパン理事)
photo by Sigurd Sandmo (IDEA ノルウェー)

ハンセン病に関わり始めた十数年前、私は国立ハンセン病療養所多磨全生園(東京都東村山市)の納骨堂にはじめて入った。周りの壁を覆うように立てられた棚に、小さな骨壺が年代順に、整然と並べられていた。納骨堂は全国の各療養所にあり、引き取り手のないお骨が納められていると聞いた。ハンセン病のために家族との縁を切られ、それでも家族を守るために自分の存在を消し、療養所で一生を終えた人たちのお骨だった。中の写真を撮ろうとすると、「骨壺に書いてある名前が見えないように撮って」と注意され、ショックを受けた。しかも多くは偽名だという。死んでもなお、名前を隠す人に生きた証はあるのだろうか?

多磨全生園に通い、写真を撮りながら話を聞いていると、園内で起きた過酷な人権侵害に驚かされるばかりだった。「自分の立ち位置を快復者の側に一歩踏み込んで、この事実を世の中に知らせよう」と考えた。

私は当時、朝日新聞社発行の週刊誌「アエラ」に所属していたので、この問題をアエラに発表しようと企画会議に何度か提案した。しかし、新聞社内ではハンセン病はすでに終わった問題と考えられており、編集会議のメンバーの反応は無に等しかった。

1998(平成10)年にらい予防法違憲国家賠償請求訴訟(ハンセン病国賠訴訟)が熊本地裁に提訴されると、マスコミに名前を出す人が少しずつ出てきた。そこで、雑誌、新聞、写真展などで公表することを前提に、写真を撮らせ、名前を出し、病歴を話してくれる人を探して、青森から沖縄まで、全国13の国立療養所を訪ねた。

快復者にとってカミングアウトは、大きなリスクを伴う。厳しい偏見と差別を経験してきた人たちがまず考えるのは、家族の新たな被害だ。「家族は、地域社会の中で直接的に差別される。その不安と危険を乗り越え、カミングアウトするのは死ぬ思いだった」という。それでも、あえて本人が表に出て被害を訴えたことが、社会を動かす大きな力になった。

この十数年の間に、日本の国賠訴訟から始まって、韓国・ソロクト訴訟、台湾・楽生院訴訟とハンセン病の歴史が激しく動いた。その都度ニュースとして様々な雑誌に発表するには、素早く対応する必要があった。このため私が写真を、妻の絢子が文章を担当することにした。記者とカメラマンが仕事を分担する新聞社のやり方と同じだ。

新聞紙上、週刊誌、月刊誌にレポートを発表し、写真集を出版した。また北海道から沖縄まで、日本全国で100回以上も写真展を開催し、韓国で3回、台湾でも写真展を開催できたことは、奇跡に近いと思っている。関係者のご尽力に心から感謝申し上げたい。

2011(平成23)年5月は、ハンセン病国賠訴訟の熊本判決から10年目を迎える。らい予防法が生んだ100年に及ぶ偏見と差別の時代の中で、この10年は、快復者にとってどんな時間だったのだろうか? ハンセン病問題と取り組んできた我々にとってはどうか? さらにこの問題と取り組んで行きたいと考えている。

村上絢子理事と八重樫信之理事は、ライターとカメラマンとして一緒に仕事をしてきたので、二人の十数年間の仕事をパワーポイントで紹介しました。
ハンセン病と関わるきっかけとなった森元夫妻とマザーテレサの写真、快復者との出会い、ニューヨーク国連本部のIDEA国際展示会、レポートを発表した週刊誌「アエラ」、月刊誌「DAYS Japan」、単行本、写真集などを映写し、「マスメディアの役割」が目で見て分かるように構成しました。

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