ニュースレター No.16 (2013年09月25日発行)
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「根性と努力に惚れた」と夫に言われたの

理事 山内きみ江

私がこんなに不自由なのに勝ち気なのは、親は障害をもっている子を一生面倒を見られないから、いかにして自立させるか、ということで厳しく育てられたからです。だから母親を「鬼ババア」とか、「どこから私を拾ってきたんだ」と言って困らせたことがあったけれど、いまになって思うと、そうやって厳しく育ててくれたからこそ、この年(79 歳)になっても私は自立して生きられるんじゃないかと思うんです。

私は8人きょうだいの5 番目で3女です。7歳のころから不自由になりましたが、兄嫁は私のことを百も承知でお嫁に来て、18 年一緒に暮らしました。そのうち私がだんだん不自由になったので、見るに見かねたのでしょう。それに兄嫁の耳に「普通の病気じゃないよ」という噂が入っていたらしい。ある日、両親と兄の前で、「きみちゃんをこのまま置いといたら可哀想だ。知り合いのお医者さんが静岡にいるから連れて行きたい」と言って、静岡の病院に一緒に行ったの。

お医者さんと兄嫁のやり取りを聞いていたら、「やっぱりらい病なんだ」と思って、「私はらい病ですか?」と聞いたの。そうしたら、「あなたのほうから『らい病』と言うんじゃ、もう病気のことを知っているんだから、それ以上言うことはないけれど、もう病気は治っていますよ」と言うんです。

その頃はハンセン病じゃなくて、らい病と言ったんです。私が昭和15 年に7 歳で小学校に上がったとき、校医が首の後ろの白い部分を指して「これは何だ?」と聞くので、「ここだけ感覚がない」と言った覚えがあるの。それがハンセン病の初期症状だったらしい。

昭和23 年だったか、だんだん不自由になってきたので、静岡の日赤病院に行ったことがあるんです。診断名は「幼児慢性関節リウマチ」でした。その後どこの病院に行っても、日赤の先生が診断したんだから「おかしい」と言えなかったんじゃないかしら。ヤケドをしたり、裏傷ができたりすると、地方のお医者さんに行くんですけれど、赤チンとか漢方薬を出してくれるだけで、治療が長くかかるんですよ。18 年もそんな状態ですから、家族は大変ですよ。私の治療費に本当に苦労したんです。

子ども時代は生活面では苦しかったけど、愛情面では恵まれていました。私が病気になってから母は厳しくなりましたが、父親は優しかった。母親としては、私が不自由になっても自立して生きていけるように、厳しくしたのでしょうけれど、私はそんな母の気持ちがわからないから、ずいぶん恨みました。

いまではこんなに根性が強くなったけど、どれだけ泣いたか知れません。ご飯を食べるにしても、こんなに手が悪いから、箸が持てない。「食べろって言ったって、箸が持てないじゃないか」と言ったら、ある日豚小屋に連れて行かれて、「豚が餌を食べるところを見ろっ!」って。残飯を箱に入れると、豚は顔中ぐちゃぐちゃにして残飯を食べていた。「母さん、なんで私を豚と一緒にするんだ」と聞くと、「お前だって腹が減ったら豚のように食べるしかないよ」と、母親がふてくされた口をきくから、私も堪忍袋の緒が切れて、丼ごと蹴飛ばしたんです。でも3日ぐらいでお腹が減ってどうしようもないの。誰も見ていないところで豚のようにご飯をクチャクチャすすったんです。鏡を見ると、豚とそっくり。鼻から口の周りからグチャグチャで、泣くに泣けないのね。悔しくて悔しくて。

後から聞いた話では、みんなそれを見ていて、「声を出して泣きたかったけど、口を押えて我慢していたんだよ。お前がそんな姿を人に見せたくはないという気持ちはよくわかるけど、生きるにはそうするしかない」。それは私が12 歳か13 歳のときでした。

昭和32 年1月17 日に多磨全生園に収容されたとき林芳信園長先生が言ってました。「あなたは家族と一緒に十何年も恵まれた状態で暮らせて幸せだった。本病は治っているし、体が不自由だというだけなんだから自宅にいてもいいんですよ」。私が「でも、いったん『らい病』だと診断されたら、家族を傷つけるから入院します。帰っても元には戻れない。ここは良い病院だし、いっぱい患者さんがいるから、兄さん、一刻も早く家に帰って両親や兄嫁さんを安心させてくれ」と言って、一緒に来た兄を追い返したんですよ。全生園に入ってからはむしろ生き生きして、かえって太っちゃいました。独りぼっちだと思っていたら、こんなに同じような人がいるし、目の見えない人もいるし、体中に出来モノが出来て包帯を巻いていたり、ノドを切ってる人がいたり。そういう人を見たら、「ああ、可哀想だ。何か手伝えたら」と思って付き添いをしたり、目の見えない人の代筆をしたり、いろいろしました。

私は学校に行ってないから字を知らないでしょう。俳句の代筆はとくに難しかった。手偏もサンズイもシンニュウもノギ偏も知らなかった。その人は手の感覚がないから、背中に字を書いてみろと言うの。「ああ、それは海だよ」とか。そういうふうに代筆をしながら字を教わっていったの。最後には自分で俳句をつくるようになりました。いまでも覚えていますけど、一番最初につくった俳句は、夏ごろでした。

熱帯夜 枕の位置の 定まらぬ

そうしたら、その人がビックリして、「字も書けないし読めないお前が、良い句をつくったなあ」って言ったので、それから自信がついて俳句も五行詩も書くようになりました。

いま私が一番力を入れたいことは、子どものイジメの問題です。いじめられて自殺したりするでしょう。周囲の大人が、「自殺する勇気があったら、歯向かうだけの根性を持ちなさい」って教えてほしいと思うの。私なんか男の子にいじめられて、毎日石を投げつけられて、ボコボコになっていた。あんまり悔しいから石を投げつけたら、いたずらっ子の眉間に当たったの。その子が家に帰って言い付けたんでしょう。その親が「うちのボンボンの眉間に傷を付けた」って、うちに怒鳴り込んで来たの。

そうしたら母が「親が文句を言いに来るのはおかしいじゃないか。お宅の子が直接きみ江に言えばいいでしょう。親も親だ。弱い者をいじめるような育て方をするな。うちの子はコブだらけで帰ってきても、誰にやられたなんてひと言も言わない。歯を食いしばって帰ってくる。男の子なら、たくましく育てろ」。母がそう言うのを聞いていて、「なるほどな」って思ったの。

いまの親は子どもがいじめられたら「可哀想」って言うけど、あんまりそう言ったら、自分でも死ぬしかないと思ってしまうでしょう。私は保育園とか幼稚園の父母相手に話しに行くんですけれど、「たしかにイジメは悪い。いじめられる方にも原因があるかもしれないけれど、“ 私も叩かれたら痛いのよ” とか、“ 私だってイヤなんだよ” とか、“ あなたがこう言われたら、どう思う? ” とか言えるだけの反発心を持たなければだめですよ。そういう強い子に育ててほしい」って言うんです。

平成元年に小学校を卒業して40 年目の同窓会がありました。会場は伊豆でした。新幹線で三島まで行ったら、観光バスの窓からみんなが顔を出して、「きみ江さ〜ん!」って私の名前を呼んでいるのでビックリ。

私に石をぶつけていじめた男の子もいて、「らい病で死んじゃったかと思ってたら、生きてたのか」って言うんで、「誰が死ぬもんかい!」「お前は人に嫌われる病気をしても、こうして達者でいるんだなあ。強い人間だなあ」「あんたにいじめ抜かれたから、だんだん根性が座って、こんなに強くなったんだよ。らい病っていったって病気の一つなんだ。病気は必ず治るんだから、ちっとも怖くないよ」って。そこで泣く人やら、手を叩いてくれる人やら。勇気を持って同窓会に行って良かったです。同窓会には一人で行ってみたら、イヤな思いをするどころか、夜の2時まで私の部屋に集まって、みんなで夜通し話しました。

社会復帰したり、養女をもらったり、私は人並外れたことをするから、全生園の人たちに叩かれるのかしら。ちょうどハンセン病国賠裁判が終わって賠償金をもらったときだったので、「年寄りの賠償金が欲しくて養女になったんだろう」って娘はいじめられて苦労したんです。ひねくれた娘を真人間にしようと9年間苦労したけど、私はこの子の母親なんだと思うと、怖いことはちっとも無かったし、母親になれば、強くなるんだなと思いました。

人間だから間違うこともあるし、壁に突き当たることもある。とにかく生きていく過程には山坂あるし、七転び八起きです。どんなに厳しい道だって、歩いていくしかない。いまは孫もできて、こんな幸せがあるなんて思ってもいませんでした。

私は79 歳。来年80 歳だけど、「4回目の成人式」って言うんですよ。振袖は着られないから、せめて薄いピンクかブルーのドレスを着て写真を撮ってもらって、それに黒枠を付けて、遺影にしようと思ってます。

もし来年の3月まで元気でいたら、4回目の成人式をお祝いしたいなと思っています。

夢も希望も大きく持たないと。


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-ハンセン病を生きた山内定・きみ江夫妻
の愛情物語- 撮影/文 片野田斉